豊城入彦命 考証

 


豊城命の説話は、四道将軍(しどうしょうぐん)の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。



『日本書紀』には豊城入彦命の派遣伝承が記されるが、命は実際には東国には至っていないと見られ、孫の彦狭島王(ひこさしまおう)も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは三世孫の御諸別王(みもろわけのおう)が最初とみなされる。



上毛野氏は、氏神として豊城入彦命を赤城神社(あかぎじんじゃ)に祀ったといわれる。「赤城」の由来の一説として、上毛野氏が歴史編纂にあたって祖先と発生地を「紀(き = 紀伊)」地方に求め、祖先の名を「とよき(豊城入彦命)」・信仰する山を「あかき(赤城山)」とした、と関連づける説もある。『日本書紀』には紀伊の荒河戸畔の娘と崇神天皇の間に生まれたのが豊城入彦命と記しており、紀伊との関係の深さが指摘される。