阿彌神社(阿見町中郷) 由緒

 


創建は和銅元年(708年)。



崇神天皇18年(紀元前80年)、豊城入彦命が崇神天皇の勅命による東国平定で当地に訪れた際、「皇祖の天下を経営せらるるや阿彌普都、実に能く天業を補弼せり、其神功成るに及びて天に還りしと、蓋し是地に於てするや」と常陸国風土記に記された普都大神の事蹟を偲ばれた。この御言葉が信太郡阿彌郷、ひいては阿見町の由来になったという。この伝承を縁故として、和銅元年(708年)に祠を建てて皇子を祀り、阿彌神社と称した。豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔一族に大網公があり、その氏神かという推測がある。



別伝として、「式内社調査報告」には、元は海神を祀るもので、天平勝宝2年(750年)の神託により豊城入彦命を合祀したという伝承がある。曰く、持統天皇5年(691年)の夏、霞ヶ浦沖に光が出るので漁師が網を下ろすと、風雨とともに異人が現れた。異人は「海の神小童の神(うみのかみ わたつみのかみ)と名乗り、霞ヶ浦の大毒魚の悪光が不漁と国家の愁をもたらすと言い残し、波底に沈んだ。すると雲が晴れて波が静まった。漁師は「海の神小童の神」を祀る「海神社」(うみじんじゃ)を村内の浄地に建立したが、後に社名が転訛して「網神社」になった。



ただし、この二つの伝承にも関わらず、近世の祭神は武甕槌命だった。明暦3年(1657年)の棟札写では本地十一面観音(武甕槌命の本地)、享保明和年間(1716-1771年)の資料では鹿島明神で、文献上、阿彌神社を称し始めたのは天明元年(1781年)以降という。