天富命(あめのとみのみこと)

 


天富命(あめのとみのみこと)は、太玉命(ふとだまのみこと)神武東征において橿原宮(かしはらぐう)を造営し、阿波国に続いて房総開拓をした。



神武東征においては、手置帆負神(たおきほおいのかみ)・彦佐知神(ひこさちのかみ)の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山(うねびやま)橿原御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)の孫の出雲玉作氏(いずものたまつくりうじ)は御祈玉(みほぎだま)を作った。



そして、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖(おえ)となった。続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国(ふさのくに)と言われ、梶(かじ)の木の生育したところをは結城郡(ゆうきぐん)と言われ、阿波忌部が住んだところは安房郡(あわぐん)と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀るを建てた。現在の安房神社(あわじんじゃ)でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿(ほこさお)を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り讃岐忌部(さぬきいんべ)氏として年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。