阿豆佐味天神社 歴史
社伝によれば、寛平4年(892年)桓武平氏の祖・高望王(たかもちおう。平高望(たいらの たかもち))が創建したという。
村山郷の総鎮守で、武蔵七党の一、村山党(むらやまとう。高望王の子孫で秩父平氏の流れを汲む)の氏神として崇敬を受けた。阿豆佐味という社名については、梓弓(あずさゆみ)によるという説、楸(きささげ、古名あずさ。ノウゼンカズラ科の落葉高木。生薬)によるという説、湧水(阿豆=甘い、佐=味の接頭語、味=水で、甘い水の意)によるという説など諸説ある。
天正12年(1584年)、慶長3年(1598年)の修復を経て、享保年間(1716年-1736年)村山土佐守により社殿の修復が行われ、その後も後北条氏が社領15貫文、徳川幕府が朱印地12石を寄進するなど、歴代領主から厚く遇されている。明治6年(1873年)郷社に列格した。因みに殿ヶ谷(とのがや)の地名は、村山党の居館があったことに由来するという。
社頭前には文久3年(1863年)の社号標がある。
また、立川市 砂川町(すながわちょう)に鎮座する阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)は、江戸時代の初め、当社を勧請したものである。砂川の新田開発を行った岸村(現在の武蔵村山市 岸(きし))の村野氏(後の砂川氏)は村山党の後裔を称する。また、小平市小川町の小平神明宮(こだいらしんめいぐう)、同市仲町の熊野宮(くまのぐう)は、同じく小川新田の開発を行った岸村の小川氏と、当社の社家、宮崎氏が、岸村に鎮座していた当社の摂社、神明社と熊野宮を勧請したものである。 「猫返し神社」としても知られており、飼い猫の無事や健康を祈る参拝客が多く訪れる。境内内の蚕影神社(こかげじんじゃ)がその社であり、蚕の天敵がねずみであることから、ネコが守り神となっている。「猫返し神社」として知られるようになったのは、ジャズピアニスト山下洋輔の影響とされている。