下御井神社 歴史

 


創建は不詳。『止由気宮儀式帳』には神社としての記載はないが、「御井」や「御井神」という語句が記載されており、上御井を指すものと見られる。同書には「御井二所」という記述もあり、上御井と下御井を表すものと思われる。



別宮の中で最も格式の高い多賀宮には、近世まで毎月6度の御饌を調製する忌火屋殿(いみびやでん)が外宮の忌火屋殿とは別に存在し、御饌が捧げられてきたが、明治時代に外宮の御饌殿で御饌を供えることになったため、忌火屋殿は廃止された。多賀宮の忌火屋殿廃止まで使われていた井戸はそのまま残され、下御井神社となった。



下御井は、上御井神社(かみのみいのじんじゃ)の予備の井戸とされているが、これまで上御井が涸れたことはないという。ただし、『太神宮諸雑事記』には永承5年(1050年)に上御井の水が涸れ、土宮の前の水、すなわち下御井の水を汲んだと記されている。「上御井」と同様、に供える水を汲み上げる井戸である。



明治5年6月(グレゴリオ暦:1872年7月)、教部省は『延喜式神名帳』および『延暦儀式帳』に記載のない神社を一律に神宮所管から外し、度会県および三重県管轄に移行したため、下御井神社も神宮所管から離れることとなった。翌1873年(明治6年)に神宮司庁は許可を得て、下御井神社と上御井神社を外宮所管社に復帰させた。1913年(大正2年)3月に覆屋が造り替えられた。