機殿神社 歴史 ③
江戸時代に入り、天下泰平となった元禄12年(1699年)には神御衣祭が再興され、糸が奉納された。ただし神宮から神職が参行するまで復興されたのは明治7年(1874年)であり、奉織が再興されたのは大正3年(1914年)5月である。
享保3年(1718年)、この地の領主の津藩主・藤堂高敏(とうどう たかとし)の寄進により両機殿が修理された。文化・文政のころ、神服織機殿神社は服太神宮(はとりだいじんぐう)と、上機殿は麻績太神宮(おみだいじんぐう)と称するようになった。このころの両機殿の様子は天保年間発行の『太神宮両御機殿通俗略記』(外部リンク参照)に詳述されている。寛政9年の『伊勢参宮名所図解』には、左右に八幡宮と春日社の社殿を配置して三社信仰の形態であったことが記されている。明治初期の『神三郡神社参拝記』では、左右の社殿を東西宝殿と記している。江戸時代後期から明治初頭にかけて、分不相応な社殿は両機殿だけではなく、神宮が社殿などを管理しなかった瀧原宮(たきはらのみや)・伊雑宮(いざわのみや)・御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)でも同様であった。
明治31年(1898年)、両機殿は明治維新後初の造替が行なわれたが、桁行1丈6尺(約4.85m)・梁行9尺8寸(約2.97m)とされた。これは明治6年に定められた一等摂社の桁行9尺・梁行7尺を大きく越え、格式に不相応な大きさであった。昭和9年(1934年)の造替でも貞享4年(1687年)の記録の規模に縮小されたが、それでもまだ所管社には不相応に大きい規模である。