機殿神社 歴史 ②
白河天皇の承暦3年(1079年)、神麻続機殿は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大した。北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部・麻績部ともに姿を消してしまう。両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭り」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
織田信長と次男の織田信雄(おだ のぶかつ)の計略により北畠家は北畠具教(きたばたけ とものり)を最後に実質的に滅亡した。豊臣秀吉が日本を統一し治安が回復したころから伊勢神宮への参拝客が増え始めた。両機殿へは山城国・紀伊国などの織物業者が講を作り参拝するようになった。上機殿は参宮街道に近い立地条件から、下機殿よりも参拝客が多かった。神宮に直接管理されなかったこともあり、このころから両機殿は分不相応な社殿などを造営するようになった。