御稲御倉 歴史
古代より存在したと考えられる。調御倉(つきのみくら)・御塩御倉(みしおのみくら)・鋪設御倉(しつらいのみくら)・御稲御倉の4棟で1組として板垣外の西方に建っていたが、平安時代中頃より、外幣殿と4棟1組は外玉垣の内側に入った。当時は神明造ではなく校倉造(あぜくらづくり)で、千木・鰹木はなかったようである。正宮の敷地内にあったので式年遷宮のたびに移動していたが、中世の末に4棟とも廃絶した。
御稲奉下(ごとうほうげ、みしねほうげ)は禰宜・大内人(おおうちびと)ら4名が大物忌(おおものいみ)と大物忌父を伴って執行していた。この時の服装は、内宮で祭儀を行うのと同じ官給の明衣(きよぎぬ)であり、如何に重要な神社であったかが分かる。奉下されたイネは大物忌の子らは臼で撞き、竃(かまど)で蒸し、炊き上がったご飯を笥(け)に盛って神前に供された。御飯は内宮・荒祭宮・滝祭神(たきまつりのかみ)に捧げられた。
天正年間(1573年 - 1592年)に4棟のうち、正宮の北西に御稲御倉のみ神明造で復興され、以後式年遷宮ごとに建て替えられた。室町時代以降は御稲御倉で神嘗祭の織御衣(おりのみそ)がここで織られたので、御機殿の異名を持っていた。
明治以降、御稲御倉神が祀られるようになり、1889年(明治22年)には荒祭宮へ向かう道の途中に鎮座位置が固定された。