山田三方 事績 ③
以上、将軍の下問に対し斯様な返答に依り、国司家の北畠政郷(きたばたけ まささと)が宇治の神役人を被官化して「岡本の番屋」等を設けさせて、宇治と山田の確執を煽った事が解る。
戦国時代、北畠晴具(きたばたけ はるとも)は神人層の対立に介入し、天文3年(1534年)1月に山田三方が自身の命令に従わないことを理由に出兵、宇治・山田の両門前町の軍勢を宮川の戦いで討ち、両門前町を支配下におさめている。
山田三方と蔵方との分裂抗争を伝える書状と思われ榎倉(えのくら)や久保倉(くぼくら)等、「倉」の名の付いた御師職は明治維新まで存続している。