香良洲神社 歴史

 


社伝では飛鳥時代欽明天皇の代(539年 - 571年)に香良洲の浜に夜ごと御神火が現れ、住民が祟り(たたり)だと恐れを成し、一志直青木が祈りを捧げ、神の御心を問うた。すると稚日女命のお告げがあり、生田神社いくたじんじゃ。兵庫県神戸市)から勧請して創建された。別の説では大同2年(807年)創建という。大同2年は、大伴文守(おおともの あやもり)が平定のために伊勢国に赴き、平定後に香良洲神社へ参詣し、和平の誓約としてを奉納した年である。



延喜式』には稲葉神社として記載され、祭神は稲羽八上比売命(いなばやかみひめのみこと)とその子・木俣神(きのまたのかみ/このまたのかみ)の2柱であり、俗称が加良須社だとしている。ただし、香良洲神社ではなく津市稲葉町(いなばちょう)の稲葉神社(いなばじんじゃ)を『延喜式』の稲葉神社であるとする説もあり、内務省1874年(明治7年)9月に調査を行い、1875年(明治8年)6月に稲葉町の稲葉神社を式内社に比定、可良須社は式外社の香良洲神社となった。



社殿の造営修理には慶長1596年 - 1615年)まで伊勢国司が、慶長以降は津藩主の藤堂氏が資金を拠出し、藤堂氏は寛延年中(1748年 - 1750年)に30石余を神領として寄進した。このように香良洲神社は半ば官幣社としての待遇を受けた一方で、境内にある小香良洲社(こがらすしゃ)は純粋に産土神として祀られてきた。社務は山田三方(やまださんぽう)の上部家が預かった。香良洲神社に参らなければ片参宮と言われたことから、江戸時代に一年中多くの人々がお伊勢参りの往路または帰路に香良洲神社へ参っていた。



1875年(明治8年)に郷社に列せられ、1882年(明治15年)に県社に昇格、1906年(明治39年)に神饌幣帛料供進社に指定された。2012年(平成24年)8月11日午後2時50分頃、落雷が原因と見られる火災が発生し、茅葺きの本殿屋根全面が焼けた。神体は無事であった。