神宮文庫 沿革 明治維新後

 


江戸時代には独立して運営されていた内宮・外宮、豊宮崎文庫・林崎文庫も明治維新の影響を受けることになる。豊宮崎文庫は1868年明治元年)10月14日に廃止され宮崎学校とされた。宮崎学校は11月に一之木の笠井太夫邸に移り山田学校と改称したが12月には豊宮崎に再移転している。山田学校はその後宇治学校と合併、度會縣學校渡会県学校)と改称し岩淵の光明寺(こうみょうじ)に移転するものの明治4年(1871年)1月に経済的理由で廃校となり、旧豊宮崎文庫の蔵書は籍中が預かることになった。



1871年(明治4年)7月、神宮司庁設立を中心とする近代化が明治政府により行なわれ、内宮・外宮の運営が統一されることになった。同時に御師制度は廃止となり御師の大部分が失業することとなった。翌明治5年(1872年)には内宮文殿・外宮神庫などに収蔵されていた両宮合わせて14,447冊の蔵書が神宮司庁に移管された。



1872年(明治5年)に伊勢神宮の教導機関として倭町の常明寺跡に神宮教院が設立され、1876年(明治9年)に旧豊宮崎文庫に移転し、講堂を神宮山田説教所として使用したが、1878年(明治11年)2月14日に失火で門と塀を残し焼失してしまう。幸いにも蔵書などは籍中の三日市太夫家に保管されていたため焼失を免れた。1881年(明治14年)には法人化する案があったが籍中による経営は困難と判断され、協議の上で残った図書などを西田貞助の所有物とすることとなった。



林崎文庫は明治維新直後の明治1年(1868年)に林崎学校となるものの同年11月宇治中之切町に移転すると同時に宇治学校と改称、林崎文庫は廃絶となった。1873年(明治6年)に元宇治会合年寄が建物と蔵書10,978冊を神宮司庁へ寄贈、教育機関としての役割も神宮司庁へ移管されることになり、同年神宮司庁は宇治浦田町の藤波氏宅を購入し、神宮教院とした。神職養成を中心とする学校は、1883年(明治16年)の神宮皇學館・1962年昭和37年)の皇學館大学(こうがっかんだいがく)へと繋がる。