保久良神社 歴史
創立に関する詳細は不明であるが、境内外に多数の磐座群が見られ古代祭祀の場であったと考えられる。境内外地より石器時代、青銅器時代、弥生時代後期の弥生式土器や石斧、石剣など種々の遺物、特に有名な物として約20cmの銅戈(どうか。重要文化財)が出土している。その何れもが儀礼的用途をもつものと考証され、祝部土器(いわいべどき)、玻璃製勾玉も発見され祭祀は非常に古い時代から行われていたと考えられる。
保久良神社由緒書によると「社名の起因も1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る 2、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、元来の主祭神は神武東征時 速吸門(はやすいのと。明石海峡)に現れて軍勢を先導した椎根津彦命である。
椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背に乗ってこの浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となった。
吉井良隆は当社を「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部(あまべ)の首長であったとされ、西宮夷の奥夷社の元宮」と推測している。 また、「住吉大社神社記」には布久呂布山の名が見え、「攝津志」には建長二年重修の棟札を所持せる事が記載されている。
社頭の灯明台の神火は「灘の一つ火」と呼ばれる常夜灯である。その言われは、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲遠征の帰途、夜に航路がわからなくなった時、保久良神社の灯火が見え無事に難波へ帰りつけた事にあり、以来「沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや」の古謡通り、広く崇敬され、航海者の一針路となっていた。
市街に近いので再度山(ふたたびさん)、高取山(たかとりさん)、旗振山(はたふりやま)らと同じように、「毎日登山」が行われており1000回以上の登山者が多数いる。