神戸(民戸) 概要 ②
大同元年(806年)の太政官牒(だいじょうかんちょう。『新抄格勅符抄』所収)によれば、神戸の総数は170社5884戸であり、最大が宇佐神宮の1660戸、続いて伊勢神宮の1130戸、大和神宮(おおやまとじんぐう)の327戸と続き、100戸以上は8社、100戸未満10戸以上は54社でその他100社余りは10戸未満で1戸もしくは2戸という例も多い。これは寺封(じふ)よりも圧倒的に少ない(寺封最大級の東大寺の5000戸に比べ、宇佐神宮は1/3)が、これは神社が寺院のような大規模な施設や祭祀を必要としなかったことが大きい。また、皇室の祖先神である伊勢神宮より宇佐神宮が上回っているのは、奈良時代から平安時代初期にかけての宇佐神宮に対する信仰が盛況であったことと関わりがあるとされている。また、大化の改新後に評(こおり/ひょう。郡)そのものが神社に寄進された神郡(しんぐん/かみのこおり)における課戸(神戸と同様の役割を果たした)が反映されていないと考えられており、2郡の神郡を有する伊勢神宮の経済規模が神郡を持たない宇佐神宮のそれを下回ると単純に解釈することは出来ない。
平安時代に入ると、律令制の弛緩とともに中央の財政難を理由に神税の一部を神祇官に送って行政・祭祀経費や官人の給与に充てる例も現れた(伊勢神宮の場合、同社と直接関わる官司である斎宮寮にも行われた)。だが中期以後、地方政治も乱れ、国司の管理が行われなくなり、逆に神社側が直接管理するようになる。これによって神戸は神社の荘園の一部として編入する動きが進行するようになり、後世における社領の基礎を形成するとともに各地の神社の荘園に「神戸」の名を負う荘園が出現するようになった。