神須牟地神社 標石

 


江戸時代中頃の儒学者並河誠所(なみかわ せいしょ)の考証に基づき、所在不明の式内社に比定された神社のうち20社に設置された標石(ひょうせき)のひとつである。式内社は、「延喜式神名帳」(巻9・10)に記載された国家祭祀の対象神社であり、多くは古代国家の解体と所在が分からなくなっていった。



江戸時代にこれらの式内社を解明、顕彰しようとする気運が高揚した。並河誠所は享保14年(1729年)から享保20年(1735年)の6年間かけて『五畿内志(ごきないし)を編纂し、その過程で畿内の所在の紛れた全式内社を当時存在していた神社に比定し、それを顕彰しようとしたが、費用面から全社を対象とした顕彰は難しく、ひとまず摂津国内の20社に標石の建立し、顕彰を行った。建立は、元文元年(1736年)から翌年にかけ、徳川幕府の支持を受け、摂津国 東成郡 赤川村(現在の旭区赤川に当る)の庄屋で、誠所の指示を受けた弟子 久保重宜(くぼ しげたか)によって遂行された。この時建立された標石は全て現存し、うち4基が大阪市内にある。誠所の比定以前は三宮という別の社号で呼ばれていた。誠所の考証には、現在からみれば不十分な点も多く、必ずしも正しいとは限らないが、これらの標石は、近世における考証主義・尚古主義の進展を示す資料として重要である。