氏姓制度 律令国家による再編 公民の扱いと浸透

 

一般の公民については、670年(天智天皇9年)の庚午年籍(こうごのねんじゃく)690年持統天皇4年)の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)によって、すべて戸籍に登載されることとなり、部姓を主とする氏姓制度が完成されることとなった。しかしながら、現存する702年の大宝2年籍に、氏姓を記入されていない者、国造族、県主族などと記された者がかなり存在するため、このとき、まだ無姓の者、族姓の者が多数いたことが伺える。





757年天平宝字元年)、戸籍に無姓の者と族姓の者とをそのまま記すことをやめる

こととした。これは地方豪族の配下の百姓には、


1  所属が定まらず無姓のままの者、


2 国造、県主の共同体に属することを示すことによって族姓を仮称させた者、


3 姓を与えられていない新しい帰化人



が存在していたことを示している。そして、これ以後、このような者たちには正式に氏姓が与えられるようになった。





8~9世紀において改賜姓がさかんに行われているのは、八色の姓において、上級の氏姓にもれた下級の身分の者や、これらの農民を主な対象としたものである。その順位は、無姓を下級とし、造(みやつこ)、公(きみ)、史(ふひと)、勝(すくり)、村主(すくり)、拘登(ひと)、連(むらじ)と身分が上がっていく。これは、天武朝において氏上に相当する氏が八色の姓に改姓する前段階として、まず連への改姓が行われ、この連=小錦位以上を基点として、忌寸以上の4つの姓へ改められたことと同様の対応である。



氏上である忌寸以上についても、補足的な氏姓の変更が行われている。氏の名において春日より大春日、中臣より大中臣への変更、また宿禰から大宿禰への変更が行われるなどしたため、氏姓の制は、全般的に、より緻密に浸透することになった。



これらの全般的な特徴として、まず首位の昇叙があり、ついでそれに連なる直系親族のみに対し氏姓の変更が行われるといった順序により同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。この改賜姓を認可する権限は天皇にあった。