ヤマトタケル 信仰 その他 ③
l 長野県佐久地方でヤマトタケルが悪い白鹿を退治した。またヤマトタケルは、濃霧の中で 八咫烏に助けられたので、付近に「烏岩」や「烏川」や 「霧積」の地名がある。そしてヤマトタケルは近くに「熊野皇大神社」を造営した。またこの山で「吾妻者耶」と嘆かれたので「留夫山」(とめぶやま)と呼ぶ。一方、ヤマトタケルが軽井沢で一泊された場所を「神宿」というが、今は「借宿」(かりやど)と呼ぶ。またヤマトタケルが川を渡るために
木こりが橋を臨時にかけたので、その橋を「杣の架け橋」と言った。ところで、ヤマトタケルが浅間山麓を見渡すと広範囲にぽつぽつと民家が見えたので、「遠近里」(おちこちのさと)と称えられた。そしてヤマトタケルに随行した「大伴武日連」が佐久(さく)の望月で他界し、埋葬した場所を「武陵」(ぶりょう)という。ヤマトタケルが休憩した 北相木村(きたあいきむら)の山を「御座山」(おぐらやま)と呼び、越えられた山を「臨降峠」という。またヤマトタケルは「国師ケ岳」の岩穴に籠られたという伝説もある。なお、ヤマトタケルは、蓼科山(たてしなやま)の大河原峠を超え、諏訪に出ようとした時、白衣姿の武将が白馬に乗って出現し、道案内をした。武将は「我は諏訪明神である」と言って消えたという。
l 福岡県鞍手郡鞍手町にヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐しに行った時、一時住んでいたと云わる「熊野宮跡」がある。中山鎮座の八剣神社がある、剣岳を登る途中にあり、村人が熊襲建兄弟討伐で来た、ヤマトタケルを手厚くもてなしたので、ヤマトタケルが帰りに再びこの地に立ち寄り、村人は仮宮を建てた。ヤマトタケルは村人の人情風致を褒めたたえ、この地を「中山」、「植木」と命名して帰って行ったと伝わる。
o 田川(たがわ)市
- 太刀洗いの井戸、ヤマトタケルがこの地方の、土賊・猪折(いおり)を討った後、太刀を洗ったと伝わる井戸。
l 鹿児島県
- 霧島市に「熊襲の穴」と呼ばれる洞穴がある。熊襲の首領である熊襲建(くまそたける)、川上梟帥(かわかみのたける)の兄弟が居住にしていたと伝われており、熊襲建兄弟の討伐を命じられたヤマトタケルが女装して忍び込み、川上梟帥を誅殺した場所として伝われており、「熊襲の穴」のほか「一名嬢着の穴」(いちめいじょうちゃくのあな)とも言われている。