畝尾都多本神社 歴史
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、
哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご玉は高日知らぬ
(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているのに、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)
その左注に、
「右一首、類聚歌林(るいじゅうかりん)に曰は桧隈女王(ひのくまのおおきみ)の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」
と記されている。これは、持統天皇十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ)の延命を祈ったのに、蘇ることなかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代には既に存在していると考えられる。
延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式内社の畝尾坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)が隣接して鎮座。奈良時代の正税(しょうぜい)を収納管理する役所「香山正倉」(かぐやましょうそう)の遺構が周辺から発掘されている。
明治時代に社殿が再建された。