畝火山口神社 歴史
創始の由緒は不詳である。文献の初見は、『新抄格勅符抄』大同元年(806年)の神封一戸を寄せるという記述である。『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)正月27日条には正五位下の神階を授けられ、同年9月8日には祈雨のための奉幣使が遣わされている。延喜式神名帳では「大和国高市郡 畝火山口坐神社」と記載され、大社に列格、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。
元々畝傍山西麓にあり、文安3年(1446年)の『五郡神社記』には「畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾」とあるが、天正年間の地図には畝傍山頂に記されており、文安から天正までの間に山麓から山頂に遷されたことになる。神社名は畝火坐山口神社より、江戸時代には「畝火明神」(うねびみょうじん)「畝火山神功社」(うねびやまじんぐうしゃ)とも呼ばれていた。
昭和15年(1940年)、畝傍山東麓の橿原神宮で大拡張工事が行われた際、橿原神宮や神武天皇陵を見下ろすのは良くないとして、日本政府より畝傍山西麓(現在地)に遷座するよう命じられた。この際、郷社から県社に昇格した。