イザナギ 神話におけるイザナギ ②

 


その後、イザナギが黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あわぎはら。檍原)」で禊(みそぎ)を行なうと様々な神が生まれた。最後に、左眼からアマテラス(天照大神)、右眼からツクヨミ(月夜見尊月読命)、鼻からスサノオ(建素戔嗚尊速)の三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)が生まれた。イザナギは三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。



しかし、スサノオが「妣国根之堅州国」(旧出雲国、現;島根県安来地方)へ行きたいと言って泣き止まないためスサノオを追放し、淡道(淡路島)の多賀の幽宮(かくりのみや、現在の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう))に篭った。



幽宮については和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」との記述があり、これが多賀大社の記録だとする説があるが、『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」「幽宮を淡路の洲に構りて」とある。つまり国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮を構えたとある。そもそも後の近江は淡海ではなく近淡海と書くこともあり、真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写であった可能性が高いと考えられている。また延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では近江の多何神社(多賀大社)は小社でしかなく、しかも「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。後の世に真福寺本にならいイザナギ・イザナミが祀られたことで中世以降は天照の親神として売り出したと考えられる。淡路島の伊弉諾神宮は延喜式神名帳では明神大社であり、古来より多賀大社より社格がかなり上の神社である。