菟道稚郎子 記録 日本書紀
『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐(あちき)と王仁(わに)を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された。応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てている。応神天皇40年1月に皇太子となった。
翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子(おおやまもり の みこ)は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだという。
ちはや人 菟道の渡に 渡手に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末辺は 妹を思ひ出 苛なけく そこに思ひ 悲しけく ここに思ひ い伐らずそ来る 梓弓檀
ちはやひと うぢのわたりに わたりでに たてる あづさゆみまゆみ いきらむと こころはもへど いとらむと こころはもへど もとへは きみをおもひで すゑへは いもをおもひで いらなけく そこにおもひ かなしけく ここにおもひ いきらずそくる あづさゆみまゆみ
この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女(やたのひめみこ/やたのおうじょ)を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという。