久我神社(京都市北区) 歴史 創建
創建は不詳。当社は、賀茂氏(かもうじ)が大和から山城に移住するに際して祀った社の1つと見られている。『山城国風土記』逸文によると、賀茂建角身命は神武天皇の東征に功を成したのち、大和から「山代の国の岡田の賀茂」、「葛野川(かどのがわ。桂川(かつらがわ))と賀茂河(鴨川(かもがわ))との会う所」、「久我の国の北の山基」の順に遷座したといい、それぞれの地には現在も賀茂氏の氏神が祀られている。それぞれの比定地は次の通り。
1 山代の国の岡田の賀茂
- 現在の京都府木津川市加茂町。式内社の岡田鴨神社(おかだかもじんじゃ)が鎮座。
2 葛野川と賀茂河との会う所
- 現在の京都府京都市伏見区。式内社の久何神社(くがじんじゃ。現・久我神社(くがじんじゃ))が鎮座。
3 久我の国の北の山基
- 当社付近。
「久我(国)」の地名については、当社一帯の古称であるが賀茂氏勢力の広がりにつれて衰えたとする説がある一方、本来は久何神社(久我神社)のある乙訓郡(おとくにぐん)の呼称で当地に踏襲されたとする説や、乙訓郡ではなく南山城の紀伊郡を本来の呼称と見る説が挙げられている。
当社が現在地に祀られたことに関しては、付近に賀茂建角身命の墳墓があったためとする伝承があるが、明らかではない。