御霊信仰 怨霊から御霊へ ②





御霊信仰が明確化するのは平安時代以降であるが、その上限がどこまでさかのぼれるかどうかは、ひとによって理解が一定していない。史料的に確実な例としてあげられるのは、『続日本紀』の玄昉(げんぼう)の卒伝にみえる藤原広継の怨霊であるが、それ以前については意見がわかれている。聖徳太子が怨霊であったとする梅原猛(うめはら たけし)(『隠された十字架』)の説は証拠にとぼしいが、蘇我宗家(そがそうけ。蘇我蝦夷蘇我入鹿)の滅亡にその兆候がみとめられるとする八重樫直比古(やえがし なおひこ)のような理解や、大津皇子(おおつのみこ)にその発端をみる多田一臣(ただ かずおみ)らの説は、『扶桑略記(ふそうりゃくき)『薬師寺縁起』のように後世にくだる史料に拠らざるを得ない欠点はあるものの、一定の論拠を有している。また長屋王については寺崎保広(てらさき やすひこ)(『人物叢書 長屋王』)が、天平7年(735)以降に大流行し、藤原四子らを死に追いやった天然痘と王の怨霊とが関連づけている。この長屋王に関しては藤原広嗣と時代も近い点からみて、ほぼ疑いないと思われる。ただし、本郷真紹(ほんごう まさつぐ)のように、長屋王や広嗣の怨霊の記事は、『続日本紀』が平安時代の編纂までくだることから、この時代の潤色であるとみて、早良親王以前の怨霊の存在は認めがたいという見方もある。現状では、奈良以前の例については確証を得難いということになろう。



なお、小説家の井沢元彦(いざわ もとひこ)は『逆説の日本史』において、古代の日本は中国文明の影響によって、子孫の祭祀の絶えた者が怨霊となるとして、これを「プレ怨霊信仰」と呼び、それが長屋王と藤原四子の事件により「冤罪で死んだ者が怨霊となる」という「日本的怨霊信仰」へと変化したと提唱している。ただし井沢の説は、定説として確定していない梅原の説をほぼ全面的に承認しての論である。