御霊信仰 怨霊から御霊へ ①
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)、井上(いのえ)内親王、他戸(おさべ)親王、早良(さわら)親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号(しごう)・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの(日本三代実録)である。
この最初の御霊会で、崇道(すどう)天皇(早良親王。光仁(こうにん)天皇の皇子)、伊予(いよ)親王、藤原大夫人(ふじわらだいぶにん。藤原吉子(よしこ)、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢。たちばなの はやなり)、文大夫(文屋宮田麻呂。ぶんやの みやたまろ)、観察使(かんさつし。藤原仲成(なかなり)もしくは藤原広嗣(ひろつぐ)) の六人が祭られた。後に、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、火雷天神(からいてんじん。下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)では6つの霊の荒魂であると解釈している。一般には菅原道真であるともいわれるが、道真が祀られるようになったのは御霊神社創設以降)、吉備聖霊(きびのしょうりょう。下御霊神社では6つの霊の和魂であると解釈している。吉備大臣 吉備真備、もしくは吉備内親王、とも言われる)をくわえ、観察使と伊予親王が省かれた「八所御霊」として御霊神社(ごりょうじんじゃ。上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)、下御霊神社(しもごりょうじんじゃ))に祀られている。