上御霊神社 歴史
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊(ごりょう)の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑(しんせんえん)で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺(しもいずもじ)御霊堂(ごりょうどう)、当社は上出雲寺(かみいずもじ)御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳年には正一位の神階を授けられた。
室町時代の文正(ぶんしょう)2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長(はたけやま まさなが)と畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
なお、延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ。式内大社)や出雲高野神社(いずもたかのじんじゃ。式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。