天岩戸神社 歴史 ②
同東本宮も創祀時代不明で、昌泰(しょうたい)年間(898-901年)の古記録に、思兼神(おもいかねのかみ)が天岩戸より出御した天照皇大神に、東本宮の地に造営した社殿への鎮座を願ったのに創まるという。その後の由緒も詳らかにしえないが、前述の元禄4(1691)年『高千穂旧記』の寺社一覧表の中に「岩社 岩神」(岩神はこの付近の地名)とあり、これが当時の東本宮を指すと考えられる。参道に現存する石灯籠には天保11(1840)年と刻まれている。前述の賀来飛霞(かく ひか)は、たまたま行き当たった秋祭りの様子とともに「土人ニ問ヘバ天磐戸大明神ナリト、石磴(石段)ヲ登リテ、茅檐(かやぶき)ノ祠アリ。祠ノ中ニ二神輿アリ。」などと記している(『南遊日記』)。『日向地誌』によると、明治4年(1871年)に「氏神社」と改称されるまでの旧称は「氏社」であった。明治6年に村社に列した。
両社ともに戦後は神社本庁に所属し、昭和45年に合併、現在は別表神社に指定されている。
現在、社務所は西本宮に置かれ、参拝客の多くが訪れるのも西本宮である。しかしながら歴史的に見た場合、前述の通り西本宮は神社というより天岩戸を拝むための遥拝所としての性格が強かったことは明らかであり、信仰の中心はむしろ天照皇大神を祀って来た東本宮であったと考えられる。