大分縣護國神社 沿革

 


明治7年(1874年)、大分県初代県令 森下景端(もりした かげなお)が、佐賀の乱戦死者15柱、台湾出兵での戦病死者3柱、明治維新勤王志士など5柱の英霊を合わせて祀り、翌明治8年(1875年10月18日、慰霊顕彰のために招魂社を創建したのに始まる。昭和14年(1939年)、招魂社の制度改正により大分縣護國神社に改称し、内務大臣指定護国神社となった。昭和18年(1943年)、北側展望台付近から現在地に遷座した。



昭和20年(1945年)の第二次大戦敗戦以降は「豊霊宮」と称していたが、日本の主権回復後の昭和27年(1952年)、元の大分縣護國神社に復した。