タケミナカタ 考証
「ミナカタ」の名称については、「水の方(ミ+ナ+カタ)」として諏訪湖畔を指すとする説、「水潟(みなかた)」や「宗像(むなかた)」の意とする説などがあるが、詳らかでない。
このタケミナカタについては、『日本書紀』や『出雲国風土記』に記載がないため、本来は出雲と無関係な諏訪地方の神話の神であり、それが『古事記』に挿入されたとする説が知られる。その説において、諏訪地方では建御名方神(新来神)と守矢神や手長足長(てながあしなが。地主神)とが相争う神話が知られることから、この諏訪大社の鎮座譚が中央神話に組み込まれたと推測されている。
そのほか、上述の力竸べ説話が後世の「河童のわび証文」型の説話(河童(水の精霊)と人が争って河童が腕を引き抜かれ誓いをする説話)と一致することから、元々はタケミナカタが諏訪湖の水神を打ち負かす説話であったのが中央神話に換骨奪胎されたとする説や、諏訪大社の大祝(最高神職)は諏訪を出てはならないという掟が中央に利用されたとする説、藤原氏が奉斎する鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)祭神のタケミカヅチの武威を高めるためタケミナカタが貶められたとする説、タケミカヅチとタケミナカタの力競べは古代の神事相撲を象徴したものとする説、『日本書紀』景行(けいこう)天皇40年是歳条で信濃坂(神坂峠。みさかとうげ)において日本武尊(ヤマトタケル)に殺されたと見える山神を諏訪神に比定する説もある。