水天宮(久留米市) 由緒
社伝によれば、寿永4年(1185年)、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使(あぜち)の局伊勢(つぼねいせ)が千歳川(ちとせがわ。現・筑後川(ちくごがわ))のほとりの鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れて来て、建久年間(1190年 - 1199年)に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社(あまごぜんじんじゃ)と呼ばれた。そのころ、中納言 平智盛(たいらの とももり)の孫の平右忠(たいらの すけただ)が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木(まき)家の祖先である。幕末の志士・真木保臣(まき やすおみ)は第22代宮司であり、境内社・真木神社(まきじんじゃ)に祀られている。
応長(おうちょう)年間(1311年 - 1312年)に久留米市新町に遷り、慶安(けいあん)3年(1650年)、久留米藩第2代藩主 有馬忠頼(ありま ただより)によって現在地に社殿が整えられ遷座したのが現在総本宮である久留米水天宮(くるめすいてんぐう)である。 その後も歴代藩主により崇敬されたが、特に第9代藩主頼徳(よりのり)は、文正元年(1818年)に久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し、その後明治4年に現在の東京水天宮(とうきょうすいてんぐう)にご遷座された。明治元年(1868年)には元神明宮(もとしんめいぐう)に分霊され相殿に祀られる。