香椎宮 歴史 概史 古代

 


万葉集』では、神亀5年728年)11月に大宰帥 大伴旅人(おおともの たびと)・大弐 小野老(おの  おゆ)・豊前守 宇努男人(うぬの おひと)ら3人が「香椎廟」を参詣し詠んだ歌(後掲)が記されるが、これが確かな史料としての初見になる。『筑前国風土記』逸文では、当時は筑紫国に至ればまず「哿襲宮(かしいのみや)」に参詣することを例としたと見える。



国史では、天平9年(737年)・天平宝字3年(759年)・天平宝字6年(762年)に、新羅の無礼を報告する奉幣伊勢神宮三重県伊勢市)・大神神社おおみわじんじゃ。奈良県桜井市)・住吉神社(福岡県福岡市)・宇佐神宮大分県宇佐市)と併せて香椎廟にもなされた旨が記されている。また弘仁元年(810年)には薬子(くすこ)の変に関する奉幣、天長10年(833年)には仁明(にんみょう)天皇即位に関する奉幣などの記事が見られるほか、以後も即位・天災・外寇の度に朝廷から奉幣を受けている。以上の一方で、神社ではなく廟であったため他の神社のような神階叙位の記事はない。



承和14年(847年)にはから帰国した円仁(えんにん)が「香椎明神」に経の転読を行なったほか、仁寿2年(852年)には円珍(えんちん)が入唐前に同神に対して博太浜で経の奉読を行なっている。



延長5年(927年)成立の『延喜式』のうち、「神名帳」に記載はないが、「式部上」には神宮司ではなく廟司(橿日廟司)を置いた旨の記載や、同じく「式部上」には「橿日廟宮舎人一人」の記載があるほか、「民部式」には「香椎宮」に守戸一烟と見え、山陵(天皇陵)に準じる特殊な位置づけにあった。また『和名抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は糟屋郡香椎郷に比定される。



天元2年(979年)の「太政官符」では「大宮司を置く」と見え、10世紀後半頃からは他の神社と同様の扱いを受けるようになっている。また史料によると香椎宮は度々焼亡しているが、その報を受けた朝廷では5日間にもわたって廃朝を行なっている。平安時代以降、香椎宮は九州で宇佐神宮に準じる位置づけにあり、事あるごとに宇佐香椎使(和気使)が朝廷から派遣されたほか、伊勢神宮・氣比神宮石清水八幡宮とともに「本朝四所」の一所にも数えられた。