香椎宮 歴史 創建
『日本書紀』『古事記』によると、仲哀天皇8年に天皇は熊襲征伐のための西征で筑紫の行宮の橿日宮(かしひのみや、記:訶志比宮)に至ったが、仲哀天皇9年に同地で崩御したという。香椎宮の社記『香椎宮編年記』によれば、その後養老7年(723年)2月6日に神功皇后の神託があったため造営を始め、神亀元年(724年)12月20日に廟として創建されたとする。現在の香椎宮社伝では、仲哀天皇9年時点ですでに神功皇后の手で仲哀天皇廟が建てられたとした上で、さらに養老7年の皇后の託宣により神亀元年に皇后廟も建てたので、これら二廟をもって創建とし「香椎廟」と総称された、としている。
後述の通り、創建当初から10世紀中頃まで香椎宮は文献では「廟」すなわち霊廟として記され、他の神社とは性格を異にする。古代に神社と霊廟がどのように区別されていたかは明らかでないが、日本土着の信仰としてではなく、中国・朝鮮の宗廟思想を背景として創建されたする指摘があり、中には異国の祖廟とする説もある。文献では香椎廟と新羅との深い関係が見られ、新羅と事があるごとに奉幣が行われている。ただし日本・新羅間が最も緊張した斉明天皇・天智天皇の時期(7世紀後半)に記事は見えず、文献上では神亀5年(728年)11月が初見になるため(『万葉集』)、史実の上でもその間の創建とされる。
香椎宮の鎮座する糟屋郡一帯は、6世紀前半の磐井(いわい)の乱に際して筑紫君葛子(つくしのきみ くずこ)から糟谷屯倉(かすやのみやけ)として献上され、ヤマト王権の朝鮮半島進出の足がかりをなしたことが知られる。この一帯で神功皇后伝説が広く分布することに関して、ヤマト王権が糟屋一帯を支配強化するに伴い、一帯の古伝承が神功皇后伝説へと換骨奪胎されたとする説がある。仲哀天皇・神功皇后は初期天皇の中でも特に実在性が疑問視される人物であるが、そうして創出された神功伝説と仲哀天皇の行宮伝承が結びついた結果、天皇・皇后の廟が営まれるに至ったとする説もある。香椎一帯は古代の遺跡が分布し古くから開けていたことが知られ、『日本三代実録』では香椎廟と志賀島(しかのしま)の海人とのつながりが深い様子も見られることから、海人族を通じた海外交渉の存在を香椎宮の起源を巡る要素として指摘する説などもある。
※換骨奪胎(かんこつだったい)
先人の詩や文章などの着想・形式などを借用し、新味を加えて 独自の作品にすること。