潮江天満宮 歴史 創建
昌泰(しょうたい)4年(901年)の昌泰の変による菅原道真の左遷に伴い、その息子である大学頭(だいがくのかみ)兼 右少弁(うしょうべん)菅原高視(すがわらの たかみ)も土佐権守に任官されて左遷され、土佐国潮江に居住した。高視邸跡は昔は「小判畑」と呼ばれており、現在は石碑が建てられている。邸跡のある山は高視の名前から「高見山」(たかみやま。筆山(ひつざん)の奥の山、正式名は皿ヶ峰(さらがみね))と呼ばれ、麓には現在も高見町という町名が残っている。
延喜3年(903年)に道真が薨去し、その御璽(ぎょじ。御鏡(おかがみ)、紫御袍(むらさきごほう)、神息の御神剣)観音像が2年後に高視の元へ届けられたので、それらを祀ったのが創祀とされる。 なお、この際届けたのが道真公侍臣の渡会春彦(わたらい はるひこ。白太夫(しらだゆう))であり、長岡郡大津村船戸(現 高知市大津舟戸)の霊松山雲門寺(れいしょうさん うんもんじ)において病を発し、延喜5年(905年)12月9日高視に会うことなく同地で没したと伝わる。その後遺品は他の者により届けられた。現在も岩崎山(大津北浦)には、その墓(奥津城。おくつじょう)が残り白太夫神社(しらだゆうじんじゃ)が建てられている。
その後、京で数々の異変があったこともあり、高視は延喜6年(906年)京へ戻り従五位上に叙され大学頭に復帰している。