福山八幡宮 歴史 延広八幡宮(のぶひろはちまんぐう)
かつては惣堂八幡宮(そうどうはちまんぐう)と呼ばれ福山城建設地である常興寺山(じょうこうじざん)の麓にあったが、福山城築城のとき職人たちにより城下の南の神島町(かしまちょう)下市(しもいち)(現在の延広町(のぶひろちょう))に祀られたとされる。寛永18年(1641年)に神島町が火事で焼けたため、神島町と共に城下南東(現在の住吉町)に移されたといわれる。なお、現在の天満屋南側の通りが(神社が存在しないにもかかわらず)「宮通り」と呼ばれるのは、この名残といわれる。寛文2年(1662年)、3代藩主水野勝貞(みずの かつさだ)の死去により発生したお家騒動のため、惣堂は騒動につながるとして「延広八幡宮」と改称された。この騒動は旧勝貞側近と門閥派との対立により起きたもので「水野家家中騒動」といわれ勝貞の元側近5名が殉死を強いられることになった。4代藩主・水野勝種(みずの かつたね)が天和3年(1683年)に城下南西の野上八幡宮と共に吉津川北岸に移転させ「東の宮」と一般に呼ばれるようになった。