犬神人 生活
祇園会神輿渡御の際、「六人の棒の衆」として先行し、法師姿で赤い布衣に白い布で覆面し、眼だけ出して八角棒を持つという。
犬神人は弓弦(ゆみづる)を作って売ったので「弦売り」(つるうり)「弦指」(つるさし)と呼ばれ、その「弦召せ」の呼び声から弦召(つるめそ)と呼ばれた。『七十一番職人歌合』(しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ)においてもの弦売りの絵も、祇園祭礼と同じ様に僧形の覆面し、笠を被っている。
江戸時代、彼らの住所は弓矢町と呼ばれ、弓矢・弦・沓(くつ)・弓懸(ゆがけ)を作った他、辻占いの一種「懸想文売り」を行った。この占いは細い畳紙の中に洗米二三粒を入れたもので、中世にも同じく賎民であった声聞師(しょうもじ)が卜占・寿祝を行っていた。これについて前記永正7年頃の申状に元三日に中御戸で千秋萬歳の祝言を行う事が書かれてあり、江戸時代にも元日寅の刻に禁裏日華門で毘沙門経を唱える事がいわれており、これらも声聞師の千秋萬歳(せんずまんざい)に繋がる。
『雍州府志』(ようしゅうふし)には犬神人が京中の寺院から埋葬料を取った事や正月2日に愛宕寺(おたぎじ。現・愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ))で牛王加持(ごおうかじ)を行いそれが「天狗酒盛」と呼ばれたとある。