犬神人 坂者(さかもの)との混同・異同 ②
正平7年(文和元年/1352年)頃の犬神人は宿老、奉行を選出して集団を為しており、しかも「諸国犬神人」も存在した。これが犬神人の組織したものか、坂非人と同一化することで坂支配下の諸国末宿を諸国犬神人としたのかは判らない。前記永正7年頃の申状には、西岡宿者は譜代百姓とあり、宿者全てが諸国犬神人になったとは考えられない。よって、清水坂非人と犬神人との実態が同一化したとて、犬神人の感神院―祇園社下級神職=職掌人としての身分と、上下京の葬送・乞食の支配権を有した坂非人の区別は守られていた。文安2年(1445年)東寺は三昧輿を使用して葬送を実施する権限を坂非人によって承認され、遺体の移動・火葬を坂に任せている。この定書には坂の執行部たる薩摩以下七名の署印花押がしてあり、また、坂之公文所(坂惣衆公文所)・沙汰人=奏者、奉行・坂番頭中などの署名があり、これらが坂執行部と見られる。下部の非人との関係は不詳だが、犬神人の構成員と重複したとしても組織としては別物であった。
江戸時代においても非人銭請受は「坂豊後」でなされており(『八坂神社文書』1242号)、坂非人と犬神人は使い分けられていた。
犬神人は上下京の葬送権を独占していたといわれ、その起源は祇園の神輿渡御の道路清掃に基づくという説がある。だが神輿渡御や祇園祭礼は下京のみであるため、上下京に渡る独占の根拠とは考えにくい。『部落史用語辞典』では葬地と葬送従事に基づく独占であると推測している。既に文永12年(1275年)叡尊(えいそん/えいぞん)の非人施行に当たっての非人長吏の起請文の第一条に、葬送の時に身に付けた具足を取っても葬家に言って責め取ってはならぬと箇条があり、それが坂非人と犬神人との同一化の結果、神輿渡御の不浄物撤去に原因を求める説ができたのだろうとしている。 また、東西本願寺門主の葬式には、宝来=犬神人=つるめそが、祇園祭礼と同じ服装で先導を務め、荼毘の事を行っているが、これも坂非人と犬神人との同一化の結果だろうとしている。