犬神人 坂者(さかもの)との混同・異同 ①
前期、康永3年の「感神院所司等申状案」には「為社恩死賜非人之間、号犬神人、所相従祭礼以下諸神事也」と、祇園社の領域に居住する非人は犬神人であるということになっている。いわば論理の転換・拡大であるといえ、戦国時代から近世にかけての犬神人は弓矢町(ゆみやちょう)に集住していたが、南北朝期にはまだ三条~五条の広い範囲に渡っており、「宮川分犬神人」などがいる。また、関連は不明だが「犬法師」(いぬほうし)と呼ばれる者もあった。
この時代、犬神人と清水坂(きよみずざか)の坂者(さかもの)が同一視されていた。『師守記』(もろもりき)貞治3年(正平19年/1364年)3月14日条に、犬神人を別の所で坂者と称している。文和2年(1353年)、『八坂神社文書』1246号には、犬神人は山門西塔釈迦堂寄人で、ともに職掌人であると称しているが坂には触れていないが、同文書1253号には永正7年頃、「当坂者事、山門西塔院転法輪堂寄人、祇園御社犬神人」とあり、坂者と犬神人は同一のものであると同時に転法輪堂寄人となっている。
寛元2年(1244年)以前から奈良坂と激烈な闘争(奈良坂・清水坂両宿非人争論)を繰り広げていた「清水坂非人」集団と犬神人とが同じであるかどうかは不明である。しかし、承久の乱前に清水坂非人の先長吏法師を殺そうとした帳本の阿弥陀法師が祇園林に籠居して祇園を号したことから、坂非人の一部が犬神人になっていた可能性がある(宮内庁書陵部蔵、年月日未詳、「奈良坂非人陳状案断簡一通)。更には建保元年(1213年)に清水寺を延暦寺の末寺に寄進しようと「乞食法師」が諜書をつくり画策した事も無関係とは言えない(『明月紀』(めいげつき))。