祭文 歴史 近世

 


祭文は、中世後期から近世初期にかけて、遊芸僧や山伏によって俗化され、特に、近世初期に三味線を伴奏楽器に加えて歌謡化し、下級芸能者の零落も著しくなっていっそう芸能化が進ん



山伏や願人坊主(がんにんぼうず)がみずからの奉ずる神の本地縁起、神仏の霊験を説きあるいて祭文を唱え、また、唱導の伝統を引き継いだ宗教色の強い「唱導祭文」をもって諸国を放浪する一方、アドリブ卑猥なことばや駄洒落といった諧謔(かいぎゃく。ユーモア)味を多く入れた「もじり祭文」や「若気祭文」も広く大衆の人気を集めた。また、他の芸能同様、祭文においても数え歌がつくられるようになった。



江戸時代に入り、祭文は三味線などと結びついて俗謡となり、犯罪心中など世俗の事件を取り上げるようになったが、これを「歌祭文」または「祭文節」と称している。これに対し、錫杖と法螺貝のみを用いた「貝祭文」(デロレン祭文)は、世俗的な物語を採用しながらも語りもの的要素の強い芸能であった。



歌祭文(祭文節)は、元禄1688年-1704年)以降、「八百屋お七恋路の歌祭文」「お染久松藪入心中祭文」などといった演目があらわれ、世俗の恋愛や心中事件、また犯罪事件をはじめとする下世話なニュースなども取り入れ、一種のクドキ調に詠みこむようになった。ほかには、余興として「町づくし」「橋づくし」「名所づくし」などの物尽しも語ったほか、役者追善遊女の名寄せもおこなった。



このような歌祭文の隆盛により、祭文語りを専業とする芸人歌手)もあらわれた。大阪生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)境内には、定設の小屋さえつくられ、歌舞伎文楽(人形浄瑠璃)など当時の演劇にも影響を与えている。



その他、下層民と結びついて余命を保った本流の門付祭文があり、説経節(せっきょうぶし)と結びついた説経祭文(せっきょうさいもん/ざいもん))があった。



このように、江戸時代中期以降はとくに祭文の多様化が進行したが、これらに共通する特徴としては、「抑(そもそ)も勧請おろし奉る」など定型化した祭文形式を踏襲し、錫杖もしくはそれを短くした金杖、そして法螺貝を伴奏に使うことであった。



なお、祭文語りの芸人は、に立って唄本の販売をもおこなった。古いところでは「賽の河原」「胎内さがし」があり、「八百屋お七(お七吉三郎)」「お初徳兵衛」「三金五郎」「お千代半兵衛」「お夏清十郎」「お俊伝兵衛」はとくに人気が高く、これらを総称して「八祭文」と称した。他に著名な作品としては、「三勝半七」「おさん茂兵衛」「梅川忠兵衛」「お妻八郎兵衛」がある。唄本は一枚刷が版行され、さらに、寄せ本も刊行された。文楽作品の『新版歌祭文』が「新版」と銘打たれたのは、先行作を意識したのと同時に歌祭文における唄本版行に由来すると考えられる。