祭文 歴史 中世

 


祭文は本来、神仏に対して発せられた願文であったが、中世に入ると山伏修験者に受け継がれた。修験者による祭文は、仏教の声明の影響を強く受け、やがて錫杖(しゃくじょう)を振り、法螺貝を吹いて歌謡化し、さらに修験の旅にともない日本列島各地に広がった。同時に、定住者である神職による祝詞とは明瞭に区別されるようになった。



山伏は各地の神事祈祷に際し祭文をよみあげ、神おろしや神仏の恩寵を願った。中世において、神仏習合の強い影響を受けた祭文は、巫女などの下級宗教者や声聞師(しょうもじ)など漂泊の芸能者の手にもわたって、その勧進活動・芸能活動にともない広められ、各地方の文芸娯楽に寄与した。また、農村宗教行事とも結びついて、悪霊退散の呪詞などとなって定着した。



いまに伝わる中世の祭文としては、大和国元興寺(がんごうじ)の極楽坊にあった「夫婦和合離別祭文」や京都太秦広隆寺(こうりゅうじ)の「牛祭祭文」、三河国の山間部に伝わる花祭の祭文、中国地方神楽で演じられた「五行祭文」、また、土佐国香美郡(かみぐん)物部に伝わる「いざなぎ流祭文」などが知られている。いざなぎ流は、陰陽道の要素を多く含みながらも土佐国で独自に発展した民間信仰であり、その祭文は定式化・体系化されている。



なお、広隆寺の牛祭(うしまつり)のようすは寛政2年(1790年)発行の『都名所図会(みやこめいしょずえ)「太秦牛祭図絵」に描かれ、そこには「祭文は弘法大師の作り給ふとなんいひ伝え侍る」と記されており、牛祭祭文が空海作成と伝承されてきたことがわかる。この祭文は、きわめて長大で、あらゆる宗教の神々の名があらわれる特異なものである。