祭文 歴史 古代

 

 

神道の祭の際に神前で読む詞を「祝詞」(のりと)と称したのに対し、仏教風ないし中国風の祭祀にあっては「祭文」と称することが多かった。ただし、算博士(さんはかせ)三善為康(みよし の ためやす)永久4年(1116年)に編したといわれる『朝野群載(ちょうやぐんさい)にあっては、大祓の際にツミ・ケガレを祓うために唱えられた「中臣祓詞」(なかとみのはらえことば。大祓詞(おおはらえのことば))が「中臣祭文」(なかとみさいもん)と表記されている。「中臣祓詞」ないし「中臣祭文」は、中臣氏が代々大祓の祝詞を宣(の)ることを生業としたために生まれた名であり、平安京朱雀門で奏上された。



「祭文」の語が史料にあらわれる最古の例は『続日本紀』であり、桓武天皇治下の延暦6年(787年)11月、天神河内国交野(現大阪府交野(かたの)市)に祀った際の祭文2編である。このとき、郊祀(こうし。中国において天子が王都の郊外において天地を祀った祭がおこなわれ、桓武天皇は実父の光仁天皇を併せて祀り、「是天上帝に告ぐ」という中国の郊祀の体裁をふまえた祭文をつくっている。この2編は漢文体であり、中国の「祭文」の形式を受け継いでいる。



菅原道真菅家文草」(かんけぶんそう)七「祭文」に収められた2編の祭文もまた、中国の祭文形式で書かれており、『延喜式』「大学寮式」の釈尊祭文、『朝野群載』永久元年(1113年)2月の北辰祭文もまた、漢文体の祭文である。その他、『本朝文粋』『本朝続文粋』などにも漢文体の祭文が収載されている。古代にあって祭文をつくった人物としては、和漢に通じた学者として知られる大江匡房(おおえ  まさふさ)がおり、『朝野群載』の承暦2年(1078年)条には彼のつくった歌合祭文が、嘉承元年(1106年)条には匡房作成の病気平癒の祭文が収載されている。



一方、祝詞は、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する文章に奏上し、もって神々の加護や利益を得んとする詞章であった。祝詞は通常大和言葉によってつくられ、神職によって独自の節回しによる朗誦が行われる。そのもっとも古い文例は、延長5年(927年)完成の『延喜式』巻八に収録される29篇、次いで藤原頼長台記』(たいき。1155年以降完成)別記所収の「中臣寿詞(なかとみのよごと)の計30篇である。



以上に対し、『延喜式』「陰陽寮式」収載された儺祭(すくなまつり)の祭文は、祝詞文と漢文が混淆しており、国語資料として貴重である。儺祭は、毎年12月晦日に宮廷でおこなわれた行事であり、この祭文は陰陽師によって読まれた。詞の冒頭部分は漢文体、中間以降は和文体の祝詞文で宣命書(せんみょうがき)の表記法を用いている。儺祭は、日本古来の神の祭りではなく、中国渡来の行事であり、陰陽師によってになわれたところから「祭文」と称されたものと考えられる。このように、平安時代における祭文には陰陽道の色彩の濃いものも多く知られている。