廣峯神社 歴史 ③
当社には、戦国時代の武将黒田重隆(くろだ しげたか。黒田孝高(くろだ よしたか)の祖父)にまつわる伝説が伝わっているが、江戸時代以降、この手代の家の中で「黒田」を苗字とする家があり、家紋が福岡藩主黒田家と同様の「藤巴」(ふじどもえ)であること、また、この家の男子の諱(いみな=本名)に福岡藩主黒田家の一族で諱字として用いられたのと同様の「重」「長」「政」「隆」の字を用いた者や、同様に通称で「官兵衛」の「官」の字を用いた者があることから、黒田重隆と何らかの関連性を持つ家であった可能性がある。
時代が明治となってからは、明治4年(1871年)の「社寺料上地令」(太政官布告第四号)により社領72石を収公され、さらに同年の太政官布告第二三四号により神職の世襲が廃止され、新たに祠官(しかん)・祠掌(ししょう)として官任されることとなったことにより、社家及び手代の多くはその地位を失って下山し、教員、近在の他神社の神職あるいは実業界等に転身していった。 現在「憩いの広場」として公園化されている旧社家谷口氏の屋敷跡地に立つ「谷口家の碑」は当該経緯をよく物語っている。
この傾向は戦後、農業技術の進歩及び経済基盤が農業から商工業に転換したことにより、当社への信仰が衰えるに及んでさらに顕著となり、神社関係者のほとんどが下山することとなった。 かつて山上に多く軒を連ねた神職屋敷はほとんどが廃屋となって、現在、ほぼ完全な形で残っているのは肥塚邸、魚住邸の二軒(ともに非公開)のみとなっている。
近世以降、播州の人が「伊勢参り」するとき、まず広峯神社に参拝してから出発し、帰ってくるともう一度社参した。これを「二度廻り」といい、この慣わしは昭和初期まで続いた。
山頂への登路は主なものが二つあり、南は白国村(しらくにむら。姫路市白国(しらくに))及び平野村(ひらのむら。姫路市北平野(きたひらの)奥垣内(おくがいち))からのものがあって、前者を表坂、後者を裏坂と称した。 この他、東は増位山随願寺(ますいさん ずいがんじ)からのもの、西は大野村(姫路市上大野)及び山冨村(姫路市夢前町(ゆめさきちょう)山冨(やまとみ))からのもの、北は須加院村(すかいんむら。姫路市香寺町(こうでらちょう))からのものがあった。現在、増位山随願寺~当社~山富のルートは「近畿自然歩道」と称するハイキングコースの一部となっている。 戦後になり、表坂に沿って車道が整備された。