古式競馬(日本) 宮中行事
宮中行事としての競馬は、未調教の馬を左右に配し、直線コースの馬場で2頭走らせる。その馬を「乗尻(のりじり)」と呼ばれる騎手が巧みに操って、競争相手を進行妨害したりしがらも先着を競う。無事にゴールまで早く走行させた方が勝ちであり、落馬は負けとなった。これは馬の速さだけでなく、騎手(乗尻)の乗馬技術が問われる趣向を凝らしたものでもあった。なお、2番目以後は負方が先行して出発する儲馬(もうけのうま)となり、勝方は一遅(いちじ)分時間を置いて後から出発する追馬と呼ばれ、追馬は儲馬を追い越して馬駐に入る必要があった。2騎1組(左方・右方)で計10番の競走を行い、全番を通して左方・右方の勝敗が決定した。
直線コースには左右に埒(らち)と呼ばれる黒木の柵を設置し、途中に目印となる3本の木を設置する。騎射の場合には左側が射向(いこう)となるように木を埒の左側になるようなコースを設定し、それぞれに的懸(まとかけ)の牓示を行うが、競馬の場合、最初の木を馬出(馬場本)とし、2番目の木を鞭を入れて競いあう「勝負の木」とし、最後の木に勝負決定の標(しめ)を置いて傍に矛を立てて馬駐(うまとどめ)すなわちゴールとする。観客は埒を望む中央の建物を馬場殿とし、その左右に幄舎を設置してそのいずれかで観戦することになっていた。
騎手は衛府(えふ)や馬寮(めりょう/うまのつかさ)などに属する武官から選ばれ、自身の位階に値する当色(とうじき)の上着、裲襠(りょうとう)という貫頭衣(かんとうい)の一種を身に付けて競技に臨んだ。
中世に至るまで盛んに行われ、花園院の日記である『花園天皇宸記』(はなぞのてんのうしんき)には、正中(しょうちゅう)2年正月13日(1325年)条の記事として花園院が属する持明院統のライバルである大覚寺統の後醍醐天皇と皇太子邦良(くによし/くになが)親王が皇位継承の正当性を巡って鎌倉幕府からの有利な裁定を求めて互いに鎌倉に使者を相次いで派遣した有様を「世に競馬と号す」と皮肉っている。