湊川神社 歴史 創建史 湊川神社創建の影響 ②

 


もうひとつの特徴は湊川神社は明治政府によって建てられたということである。村などの生活共同体でもなく有志でもなく宗教者でもなく藩でもなく、政府によって建てられたのである。明治維新の目的・意義は、国家の近代化にあるように現在では認識されているが、それ以上に古代を理想とした天皇を中心とする国家の実現にあった。その理想には祭政一致が含まれており、神社や神祇の祭祀は、国家がその全てを掌握することが目指されたのである。近世末、楠木正成は既に国家の英雄としての地位を得ていた。明治になり、湊川神社の創建は当初、複数の藩や有志により提唱されたが、政府はいずれの団体にもその創建を任すことはなく、政府自らが主体となって建てた。国家の英雄である楠木正成の祭祀を政府以外の者に行わせるわけにはいかなかったのである。楠木正成を顕彰する湊川神社は、明治新国家によって建てられることにより、天皇を中心とする国家の誕生を象徴するモニュメントとなったといえる。国家として特定の人物を顕彰するということは、その人物を国民の理想像として提唱し、その生き方を国民に推奨するということである。七度生まれ変わっても国に尽くすと誓い、国家のために死んだと位置付けられる楠木正成を顕彰することは、その生き方を国民に勧めることであり、近代以降、特に第二次世界大戦中において、その果たした役割は小さくないと言えるだろう。




また神社史上、神道学上注目される事項として、墓を境内に含んで神社が建てられていることがある。本来、神社において死のケガレはもっとも忌避すべきものだとされているにもかかわらず、ケガレを持つ墓に隣接して神社が建てられているのである。これは豊国神社・日光東照宮などを受け継ぐものだと言える。ケガレの問題は祭神となった人物は生前にも遡って神と見なすことによって、回避しているのだろう。また近世の神葬祭の発展により、死者の祭祀に神道が関わることへの抵抗が弱まったことも影響しているだろう。しかし、墓と神社、死者の神道祭祀がどうあるべきかの問題は現在でもさまざまな見解があり、定まっていない。