湊川神社 歴史 創建史 尾張藩の楠社創建計画 ⑥
尾張藩が設計した社殿などの図面は現存していないが、この意見は取り入られたらしく、京都の楠社創建の実現は現実性を帯びてきている。社地の候補地は特に考えは無く、前年の建白の通り、神楽岡でよいのでないかとしている。これを受けて神祇官で協議され、楠社の社地について意見している。神祇官は12月9日、社地は京都東山操練場の隅がよいだろうと述べている。この神祇官の意見に対して、鷹司輔煕(たかつかさ すけひろ)・松平慶永(まつだいら よしなが。松平春嶽)・中御門経之(なかのみかど つねゆき)・福岡孝弟(ふくおか たかちか)・阿野公誠(あの きんみ)が、あたかも操練場の祭神のようだと反対した。さらに、これを受けて鷹司輔熙・中山忠能(なかやま ただやす)・徳大寺実則(とくだいじ さねつね)・阿野公誠らが主張して、廟社は戦死した遺跡に建てるものであり、京都に建てるべきではないとした。一度、京都創建の実現性が高まったものの、この意見が決め手となり、翌1869年(明治2年)3月30日に京都に楠社を創建することは却下する達がなされた。
なお、この祭神由緒の地に神社を建てるべきだという意見はその後の、人物を祀る神社の創建の際の基本原則となったようである。こうして、尾張藩の請願は実現しなかったが、尾張藩は兵庫県の楠社創建の支援を命じられた。