湊川神社 歴史 創建史 尾張藩の楠社創建計画 ④
この2回目の建白に対する朝廷の反応は明らかでない。恐らく、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争や新政権の諸事務で、積極的に取り合う余裕が無いため、指示を出すことができなかったのだろう。そのため、徳川慶勝は1868年(明治元年)3月に3度目の建白書を、前2回の建白書も添付して提出した。
謹而奉上言候、臣慶勝旧冬上直之砌、一之別紙之趣建白仕候処、御付札ヲ以テ御下問ヲ蒙候付、二之別紙之趣猶又奉拝答候儀御座候。
爾来世態一変、万機御鞍掌、右等之辺御評議之御暇モ乍恐如何可被為在哉。然処近来弥増 御徳輝御盛昌、 御大業漸々御開盛之折柄、右等等之御盛挙モ被為在候ハヽ、自然人々所嚮ヲ知候様相成、御風化之一端歟ト愚考仕候付、当時 御見込之程ハ難奉測候得共、不堪渇望、重而奉上言候。臣慶勝 誠惶誠恐頓首敬白。
三月 大納言 慶勝 上
しかし、同じ3月には一度計画をするが中断した薩摩藩が動き出していた。詳しくは後述するが、兵庫裁判所に配属されていた薩摩藩士 岩下方平(いわした みちひら/ほうへい。岩下佐次右衛門)らは兵庫裁判所総督 東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)に楠社創建の請願をしている。注目されるのは、藩が主体となって創建するのではなく、政府が主体となって創建することを請願してることである。これを受け、東久世通禧はその建白を奏上し、聴許されている。