湊川神社 歴史 創建史 尾張藩の楠社創建計画 ③

 


これを受け、26日、近衛忠熙は留守居役尾崎忠征に指示を出した。摂社祭神の「近古為国事ニ身ヲ亡し未御収恤を不蒙者」とはいかなる者か、詳細を調査し、社地の候補地についても調査し、報告することを命じた。これを受けて、同月、慶勝は再び建白した。



謹而奉上言候、楠社之一条ニ付、頃日奉建言候書而ニ、御付札ヲ以、蒙 仰候、近古以来国事ヲ以テ身ヲ亡シ、未御収恤ヲ不蒙者共、人名事蹟不洩取調、早々可申上旨奉拝承候。皇国節烈ノ士縷数枚挙ニ遑アラス。青史ニ載有之候事ハ、瞭然如指掌ニ候得共、其外曖昧難考索儀モ不少、且青史之事蹟モ、一朝ニシテ能捜尽スヘキニアラス。正史・野乗・閭閻・口碑ノ説ヲ雑取、強而博綜ヲ極、繊芥ヲ不違事ヲ欲スル時ハ、玉石混淆、遺漏誤脱ノ失ヲ生シ、不可然ト奉存候、 天下更始ノ時ニ当テ、国歩之艱難ニ身ヲ殉候者、忠魂義魄ヲ御祭祀被遊、褒崇之典ヲ明示シ、人名ノ区別ヲタテス、死者暝目、生者立志候様至要ト奉存候。猶更宜御廷議御裁決被遊候様、奉願候。 但右御建立地所之儀モ御下問、被為 在奉拝承候。右者何レニテモ別段見込之場所迚ハ無御座候得共、神楽岡辺抔相応之地ニモ候半款歟。尤是ハ、 御廷議次第之御議ト奉存候事。

 十一月                      大納言慶勝 上

 

 


慶勝は「近古以来国事ヲ以テ身ヲ亡シ未御収恤ヲ不蒙者」について、その数は枚挙にいとまなく、その事蹟は曖昧ではっきりしない者もおり、すぐさま全てを調査しきることは出来ない。強いて名前を挙げれば、「玉石混淆、遺漏誤脱」の恐れがあるので、個人の区別をせずに、まとめてその霊魂合祀することを述べている。また社地について、特に考えは無いが、京都神楽岡(かぐらがおか)が良いのではないかとしている。これによると、慶勝は楠社の摂社について、のちの靖国神社に近い構想(但し、靖国神社は原則として祭神の名前などを全て明らかにすることになっている)を持っていたことが分かる。なお、森田康之助によると、慶勝が神楽岡を候補地としたのは、京都の尾張藩邸がその近くにあったからだけのことで、その土地に特に考えがあったわけではないらしい。