湊川神社 歴史 創建前史 楠公の祭祀 ⑤

 


1860年万延元年)2月には、前述したように薩摩藩で有馬新七が町田久成と協議して、町田家が1777年安永6年)より祭祀していたと伝える楠公小祠を町田家の領地である石谷村(いしだにむら。現在の鹿児島市石谷町(いしだにちょう))へ移して、改めて小祠を立てた。この楠公社の鎮座式には大久保利通岩下佐次右衛門(いわした さじえもん)伊地知正治(いちじ しょうじ/まさはる)有村左衛門(ありむら じざえもん)などが参列している。岩下方平いわした みちひら/ほうへい。岩下佐次右衛門(さじえもん)はのちに湊川神社創建に関わる人物である。この楠公社は明治になって西郷隆盛鹿児島の軍務局に遷座したが、廃藩置県による軍務局廃止後は西郷の私学校に祀られた。1876年(明治9年)に至って、辺見十郎太の請願により宮之城(みやのじょう)に移されて、現存している。



尾張藩では1862年文久2年)、国学者 植松茂岳(うえまつ しげおか)が藩許を得て、洲崎神社(すさきじんじゃ)境内に楠公、物部守屋和気清麻呂を祀る三霊神社を立てている。その後、名古屋富士浅間神社ふじせんげんじんじゃ。現:名古屋市中区大須2-17)の境内に移されている。また、1865年慶応元年)9月に丹羽佐一郎が私祀していた楠社を藩許を得て、名古屋の神明社(現:名古屋市東区徳川2)に遷座し境内社に祀った。1867年(慶応3年)、子の丹羽賢(にわ まさる)田中不二麿(たなか ふじまろ)、国枝松宇(くにえだ しょうう)が社殿改築している。