湊川神社 歴史 創建前史 楠公の祭祀 ④

 


真木保臣の影響を受けてか、1864年(元治元年)には長州藩でも楠公祭を行っている。長州藩主 毛利敬親(もうり たかちか/よしちか)明倫館(めいりんかん)を祭場として楠公祭を行った。注目されるのは、このとき、真木の大坂での楠公祭と同様に藩に殉じた村田清風(むらた せいふう)吉田松陰来原良蔵(くるはら りょうぞう)など17柱もあわせて祀っていることである。1865年慶応元年)5月14日には佐甲但馬が楠公祭には殉難者の英霊を従祀することを上申。この上申に基づいて、その後、1869年明治2年)に至るまで毎年長州藩では楠公祭に合わせて殉難者を祀るようになる。長州藩は殉難者の祭祀を早くから始めている。



ほかの各藩の楠公祭を見て行くと、石見津和野藩では、1867年慶応3年)に初めて楠公祭を行った。藩主 亀井茲監(かめい これみ)養老館を祭場として、正成を始めとする元弘建武に殉節した忠臣を祭った。1869年(明治2年)にはそれらの神霊を養老館の鎮守として鎮座させた。津和野藩は直接湊川神社創建には関わりないが、藩主亀井茲視と藩士 福羽美静(ふくば びせい/よししず)は、維新後、神祇官の要職についており、楠公祭の形式などに影響を及ぼしている可能性は高い。



佐賀藩では深江信渓が楠公親子決別の像を作り、早く1663年寛文3年)に佐賀郡北原村の永明寺に祀ったと言われている。それを1816年文化13年)に高伝寺梅林庵に移したという。1850年(嘉永3年)、枝吉神陽(えだよし しんよう)相良宗左衛門(さがら そうざえもん)島義勇(しま よしたけ)大木喬任(おおき たかとう)らが政治結社楠公義祭同盟を結成し、梅林庵で楠公祭を毎年行った。これを知った家老鍋島安房(なべしま あわ。鍋島茂真(なべしま しげざね))1854年(安政元年)には藩の鎮守竜造寺八幡宮の末社のひとつを取り払い、楠公社に改めた。