湊川神社 歴史 創建前史 楠公の墓 

 


次いで1695年元禄8年)に、建碑とこれまでの楠公墓維持の功績に報い、これからの楠公碑の維持管理のためとして廣嚴寺の堂宇を造営した。同時に楠公墓碑がなどによって汚されるのを恐れて、碑を覆うを建てている。同年5月24日頃より作業を始め、11月25日に落成供養を行っている。これらにかかった費用は実に1500両となる。



その後、尼崎藩では1751年宝暦元年)尼崎藩 松平忠名(まつだいら ただあきら)が燈籠を寄進する。その後、松平忠興(まつだいら ただおき)まで代々の藩主が寄進している。



また1759年(宝暦9年)、楠木正成の末裔と称する江戸の楠伝四郎なる者が、西国街道から墓に至る参道を作っている。楠伝四郎は付近の土地を買い上げ、廣嚴寺に寄進し、参道としたのである。その参道の規模は長さ65(約110m)、幅2間(約3.6m)だったという。



1813年文化10年)には、地元の大床屋の平野本治という者が周辺の土地を買い上げて墓域を拡張した。平野本治は300坪を寄進し、周辺の有志・廣嚴寺からも寄進され、340坪となった。本治はまた松の木を自分の山より何本か植え替えて、墓域を整えた。



こうして、光圀の建碑の後も度々整備され、楠公墓所は正成を崇拝する者たちの聖地となり、のちの湊川神社創建の基盤となることになったのである。