湊川神社 歴史 創建前史 楠公の墓 ⑤

 


裏の碑文は前述の通り、朱舜水の文である。朱舜水はの遺臣で1659年万治2年)に日本に亡命し、水戸藩が抱えていた儒学者である。建碑の10年前の1682年天保2年)に既に没している。この刻まれた文は生前の11670年寛文10年)に描かれた狩野探幽(かのう たんゆう)の絵の賛として選された文であった。加賀藩前田綱紀(まえだ つなのり)の依頼によって描かれたその絵は『太閤記』に有名な楠木正成正行親子の桜井駅での別れの場面を描いたものである。同文は『舜水先生文集』に収められ、同書より碑文として選ばれたことが誤字(もしくはその後の推敲)から分かる。実際の賛には「之死靡佗、卒之以身許国」とあった部分が、同書では「卒之以身許国、之死靡佗」とあり、碑文でも同様になっているのである。

 

 

忠孝著于天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則乱賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈国士無双蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任体士推誠是以謀無不中而戦無不克誓心天地金石不渝不為利回不為害■故能興復王室還於旧都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵搆殺国儲傾移鐘■功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妬前庸臣専断而大将能立功於外者卒之以身許国之死靡佗観其臨終訓子従容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世々忠貞節孝萃乎一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能発掲其盛美大徳耳


右故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公賛明徴士舜水朱之瑜字魯■之所選勤代碑文以垂不朽