湊川神社 歴史 創建前史 楠公の墓 ③
徳川光圀は1680年(延宝8年)春より、南朝正統論を裏付ける史料を手に入れるため、史臣たちに全国を探索させた。1685年(貞享2年)、宗淳は楠公戦没の地の廣嚴寺を訪れた。ここで宗淳は千巖と会ったのである。ここで宗淳は徳川光圀に建碑の意向があることを伝えたと思われ、千巖もそれを強く請願したと思われる。
その5年後の1690年(元禄3年)12月17日に千巖は水戸藩士 鵜飼練斎(うかい れんさい)に宛てて建碑の催促の書簡を送っている。この間、水戸藩と廣嚴寺がどの程度連絡を取っていたのかは分からないが、5年経っても一向に建碑の動きがないので、しびれをきらしたのだろう。
千巖が送った先の催促の返信は1691年(元禄4年)2月23日に来た。再び鵜飼練斎に書簡を送り、同年3月23日に建碑することが決まったことを伝える知らせが届いた。これを受けて千巖は同年6月1日に建碑のことを尼崎藩主青山幸督(あおやま よしまさ)に郡代を通して報告した。
1690年(元禄3年)10月に徳川光圀は幕府から致仕することを許され、ようやく楠公の建碑に取り掛かることが出来た。
1691年(元禄4年)3月23日に、千巖に建碑を行う旨を伝え、1692年(元禄5年)4月23日、光圀は佐々宗淳に建碑を統轄実行することを命じた。
建碑を任された佐々宗淳は同年6月2日に廣嚴寺に到着した。まず基礎となる石壇造営にかかった。宗淳は同月3日、摂津住吉から石工の権三郎(ごんざぶろう)を招き、寸法の詳細を伝え、地震にも耐えられるように隙間無く作るように命じた。千巖は数度住吉まで石の色などを見に行っている。石壇を建てる下準備として敷地を広げるために同年5月に青山幸利(あおやま よしとし)の植えた梅松を切った。このうち、梅の木は廣嚴寺に植え替えられ、現在も同寺に存在するという。7月19日、住吉の石工たちが来て基礎の石壇の作業を始めた。青山幸利の建てた五輪塔は地中に埋められた。石工35人は作業小屋を立てて作業を続け、8月6日に2段からなる基礎石壇が完成した。