湊川神社 歴史

 

幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを自らに重ね、彼らを理想とした。特に楠木正成はその忠臣の筆頭に挙げられ、多くの維新志士が彼の崇拝者となり、その祭祀を行った。明治維新の意義は、公的には神武創業に回帰するという意味が岩倉具視らの強い主張により与えられたが、実際の倒幕運動は神武創業というよりはむしろ建武の新政を理想として行われたものであった。それは江戸時代に儒学の興隆によって興った南朝正統論に起源するものである。



明治維新が実現すると、楠木正成は、皇室に忠義を尽くした第一の功臣として顕彰され、神社が建てられることとなった。神社の創建には薩摩藩尾張藩水戸藩などが主導権を争ったが、最終的に神社は国家が祀るものとして、政府が主導して建てられた。



湊川神社の創建は、これに続く南朝関連の人物を祀る神社創建の嚆矢となり、別格官幣社に代表される、功績のあった人物を神社に祀る風習のさきがけとなるなど、近代神社史上、無視できない重要な位置を占めることとなる。



また、『太平記』に記される楠木正成・正季兄弟自害の逸話に基づく「七生」は後代に「報国」の意味が加わり「七生報国」(しちしょうほうこく)となり、戦時中のスローガンとなった。戦災で社殿を焼失したが、戦後復興している。